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眞帆引ていそぐ千舟はおもふかたの

風にいづくのみなと出けむ
居處

造士館府城の南 坂本村に屬す、府城二之丸の前なり、本府の學校なり、外門には仰高二字の額を掲く、清人臨汾王亶望書なり、安永二年、 大信公創建す、初め 寛陽公府學を建んことを議す、果さずして薨ず、是に至て是擧ありといふ、本藩儒學の所傳を考に、 圓室公の時、桂庵和尚聘に應して本藩に來留り、始て程朱の學を唱ふ、桂庵和尚は、京師五山の徒にして應仁中、幕府の命を奉して、明國に使し、程朱の學を傳て歸る者なり、程朱の學を皇國に傳ふは、師を權輿とす、桂庵の傳は、下條其墓の附録

に詳なり桂庵が門に、月渚和尚あり、月渚の門に、一翁和尚あり、渚、

及び一翁の事は、桂庵傳の注に概記す 一翁が門に、文之和尚あり、皆其學を傳ふ、文之才學衆に過て、 慈眼公の時、府下大龍寺の住持となり、常に朱說を講ず、學徒多し、文之の傳は、大龍寺に載す、文之の門に學之和尚あり、學之が弟子に一溪和尚あり、幷に大龍寺の住持にして其學を承、經を講すること文之の時の如し、又文之の門人に、如竹上人あり、外に在て是を木鐸す、如竹の傳は、屋久島の巻に見𛀁たり、 如竹學行あり、桂庵が學、文之如竹に至て大に興る、海内文之如竹と幷べ稱す、四書周易傳義等に文之點あり、寬永の初め、如竹上人板行す、是皇國四書等板行の始なりといふ、此等如竹が事、屋久

島の巻に詳なり、一溪和尚が後、他邦の僧不門和尚、大龍寺の住持となり、舊式に仍て講義をなす、寛文二年 寛陽公菊池東匀を聘して、儒職とす、東匀は、藤助と稱す、林道春に學ぶ、明暦元年朝鮮來聘す、京師本國寺に館す、東匀朝鮮人と唱和す、學生李石湖、其才學を稱じ、大海以東人第一、紛々諸子莫之先の句あ