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客として當園に在りし時、此海面を眺望して詠る歌に、山のみな、環れる内に、入海は、いづくを指して、潮の引らん、又夜光る玉も何せん、薩摩がた、といひしは、連城の璧も、此地の風景に易ふべからざるを評するに似たり、長明無名鈔に、つくしにとりて南のかた大隅薩摩のほど、いづれの國とかや、おほきなるみなと侍り、そこには四五月にはあけくれ浪たちて、しづまることもなし、四月にたつをうなみといひ、五月にたつをさなみとなん申侍る云々、おほきなるみなとゝは、此府下の海邊をいへるにや、五月の頃は南風頻に吹て波浪を起すこと現にあるを以て思ふべし、又昔は是より西南に廻り巨闊の灣港なりしを今の府城を建られしより、繁昌日を逐ひ、人民蕃殖するがゆゑに、往々海面を築ひて、旱地となりしと見𛀁たり、此長明語、都城の巻、島津名義事證の段、亦是を引て論せり、併せ考て其説の可なる者に從ふべし


尾畔府城の西南  西田村、原良村の境にあり、山の尾延て田畔に接す、因て、名つけしにや、此地山を負ひ水に臨み、幽邃いふべか らず、山腹に邦君の別館あり、 寛陽公の時より置かれたりと云、前には田野の景物、四季に循ひ伎を呈し、媚を效す、殊に此邊櫻樹多くして、春花盛開の候、滿林白雲を宿し、六出香風に飜る、櫻花七日の榮、後來期しかたく、徒に放過すべきにあらざれば、貴賤老少袂を聯らね袖を引て、人我互に誘伴し、或は花下に玉杯を弄し、或は梢上に品評を費す、すべて無邊の光景にして、賞心盡しがたければ、西嶺に落暉を惜み、歸路の催促を厭はさるはなし、漸く東君老し去て、新葉茂密し、夏山深々として、一曲の緑水館を抱ひて流れ、避暑の散歩涼に乘して掬すべし、螢影は漁火に類して遠近に亂飛し、同志相携て所々に徘徊す、興あり趣ありて、別に佳境を得るが如し、秋