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丘ならんといへり、其実蹟は、後條東福寺城に考ふべし、

○多賀神社  當山の巓にあり奉祀伊弉諾尊神体鏡、 正祭四月中午日、當社は、貫明公本御內今本名大龍寺の地、に在りし時、山伏鷲頭不動院なる者をして、江州犬上郡多賀大明神を招到し、日之少宮に擬して、天正七年、巳卯、二月六日、此所に勸請せしめ給ふ、此時濱崎山玉臺寺不動院の號を命せられしと云、是より鷲頭氏世々これが祭祀を司とれり、書紀曰伊弉諾尊功既至矣、德亦大矣、於是登天報命仍留宅於日之少宮矣、古事記曰、伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也、神名式曰、近江國犬上郡多何神社二坐和名鈔に田可郷あり、これなるべし、神書鈔曰、日之少宮者、近江國犬上郡多賀大明神是也、近江在艮方、日之所初出也故曰日之少宮、出雲杵築宮在乾方、故曰日隅宮、日之所入也、この日之少宮、日隅宮の

事は、猶別に其由あるとは見𛀁たり、和漢三才圖會、近江国曰、多賀大明神、在犬上郡、祭神伊弉諾尊號日少宮、別當眞言不動院、是等を以て當社所祀の事を知るべし、

神月川 水源郡山邑より出て縈紅曲折して、東に流るゝこと數里、草牟田村宇治瀬神社の前より、府下の西邊を經、南に廻りて武村に至り、内海に注く、今府下にして、これに四橋あり、 其一を新上橋、其二を西田橋、其三を高麗町橋、其四を武之橋とす、これを神月川といふは、宇治瀬神社、神嘗月の祭より出たる名なりといへり、薩州神社考には、上月に作る、俗には、江月、甲突、甲付など書り、一名境川とも呼べり、又大野川の名あり、舊流は、府城の西隅、柿本寺の後、和泉崎の滙潭を通りて、柿本寺の下より、府城の東南、若宮社の前を過きて、海に入し

と、口碑あり、社前の池塘、其跡なりとぞ、後河道を西に移し、南林寺の背、清瀧川其跡といひ、愈西して今のごとしとぞ、

○伊敷の堰  神月川の上流上伊敷村、黒岩飯山の間にあり、磈石を疊こと數十歩、こゝに川流を湛へ、横さまに渠を開き、流