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る地もあり、又同邑外面の海中に、小島の出しを、前に所引の續紀、寶字八年に、大隅薩摩兩國之堺云々、於麑島信爾村之海云々、化成三島と記され今現にその地は、大隅桑原郡と、同國囎唹郡とに係て、薩摩大隅の境にあらず、薩摩鹿兒島郡とは、南北五六里を隔離れ、其間に大隅始羅郡、加治木、帖佐、蒲生、山田等の邑あり、又三代實録、貞觀二年、三月廿一日、薩摩國鹿兒島神、この鹿兒島神、蓋し本府草年田村宇治瀬神なりと云、又建久八年、六月、薩摩國圖田帳に、大隅正八幡宮御領八十町、鹿兒島郡荒田荘とあり、かゝれば往古國分より本府荒田村の邊、彦火火出見尊に縁由ある故蹤にて、鹿兒島と稱へ、今の鹿兒島郡より以北、國分の地に亘り、薩摩國の内にて、郡を置るに及び、即ち郡名とし、大郡なりしを、其地を割て、彼此に屬すといへども、國分鹿兒島神社、麑山等の如き、其名に係れるものゝ舊處に存在せるなり、

  鹿兒島之一即ち本府なり、本府は鹿兒島郡鹿兒島郷、永吉郷、及び日置郡、滿家院の中、比志島村、小山

り、本府の諸村を擁す、本府の諸村は假令は京師に五畿内あるがことし、府城を周衛して、衆星のごとくこれに

拱し、諸邑の望となり、萬の事、おのづから諸邑とは其差めあり、鹿兒島の名義に於ては、前に郡の總説に記すが如し、滿家院の事は、郡山の篇首に、併せ見るべし、

   山  水

多賀山府城の東北  坂本村にあり、東福寺城の山に連り、麓に棈木川を帶ふ、南に臨めば、府下の阡陌屋宇鱗次棊布し、西は林嶺參差として、烟靄斷續の中に露れ、東は碧海湛へ、北は緑樹覆ひ、四顧趣を異にし、風景見れども飽かず、凡そ府下の形勢を双眸に收るは、此地を以て第一とす、鹿兒島八景の一にして、昔時濱崎ヶ城といへり、一節に、尾頸小城、此山とす、又一説に、尾頸小城は、當村小城權現鎭坐の林