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る、昆陽漫錄九州記、幷に鹿子島、野藪談話、鹿護島、陰德太平記、 籠島、和漢三才圖會、籠島、或は鹿護島等に作る、圖書編、薩摩州の圖に、康國什麽と題せるは、鹿兒島の唐音なり、是を地名畧に、鹿兒島上古作康國什麽とあるは、甚た非なり、國分氏所藏の 鎌倉右大將公御教書、國字を以てかごしまとあり、此かごしまの名は、本彦火火出見尊の駕し玉へる、無目籠の義に出といふ、一説には尊の山幸に因れる名とす、國分鹿兒島神社は、尊を祭り、即ち其聖蹤なるがゆゑ、かごしまの名義は、彼條に細論す、夫郡は何れの世分置ありしや審ならず、 成務天皇の時、詔して諸郡に長を立らる、觀之ば既に其以前よりありにして、 孝徳天皇の時、天下の郡を三等に建て、四十里を大郡とし、三十里以下四里以上を中郡とし、三里を小郡とす、 文武天皇の時に至り、郡を五等に分ち、二十里以下十六里以上を大郡とし、十ニ里以上を上郡とし、八里以上を中郡とし、四里以上を下郡とし、二里以上を小郡とす、里とは家數五十戸ある所を云、されば昔時の一郡は千戸より百戸の所と見ゆ、古へは生齒すくなく、戸口も多からざること、是を以て推知るべし、今時は少々の聚落にも千戸に滿る所は、あまたあり、太平日久しく、人民の繁昌なること思ふべし、素より其里は道程の里數にあらずといへども、郡の等差に隨ひ、其方域の廣狹ありし亦察すべし、今鹿兒島郡の方域は、當所諸村の地、及ひ吉田郷のみ、然かるに吉田郷も、天正十五年始羅郡より鹿兒島郡に隷られしと見𛀁たれば、鹿兒島郡はたゞ一邑の地にして、小なるに似たり、按ずるに、國分邑宮内の正八幡宮は鹿兒島神社とて、彦火火出見尊を奉祀し、社家傳に、鹿兒島とは、今の宮内の事と云、亦同邑に麑山といへ