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  妻ならぬ 女 抱きて
  涙流せば 嗤われむ

ああ 醜聞は
太古より 獣めきたる にんげんの
  かなしきさがよ――栄ある習慣ならわしよ――
まして現身うつしみ
  契る絆の これやこの
相剋あらそいごとは
 ―――夢 仇ならず。

涙よ
涙よ
ただもう 春は 涙に解けて……
生けるしるしありし日の
今を限りの――恍惚の――涙流して

帰れ 女よ。国境へ――
穆稜ムーリンの雪もほのぼの消えゆくならむ。

〈昭和十六年、日本詩壇・生活風景〉

いたつきの春

いたつきの わが肌に
垢は苔のごとくつみたれば
春虱 あまたわきたり。

じんじんと熱たかく
セキズイの疼くあたり
終日ひねもす 皮膚は痙攣するを
ただにわれ 瞳とじて耐えんとするに――
これはまた
哀れにおかし
春くればとて
わが病む黝き背筋を

虱ら 眷属つれだちて 浮かれいづるよ
〈いたつきの春は虱と遊ぶなら
良寛さんか われもまた
ぞろりやぞろりやぞろりぞろぞろ
おんぞろぞろりやおもしろや……〉

今宵 わが病み呆けたる
虚ろ心の おどけ姿を
妻は ほのかに涙ぐみ
虱など いちはやく殺さむという。

しらたまの 妻のお指に
ぽつちりとちさき音たてし……
その儚さは 虱か われか
春の夜の おぼろおぼろに
おどけたる命はかなし。

〈昭和十六年、日本詩壇・生活風景〉

母の紐

夕べ
風もなく 音もなく
白い葩が散るので
母はやるせなかったのであろう
若く かなしく
青い眉 ほのかに忿らせて
杏の樹に 縛りつけた
悪童の
 杳い――とおい 春の感傷いたみであった。

戒めの 両手もろてをあげて
杏の樹をゆすれば
ほろほろと 白い葩こぼれ 熱い泪こぼれ
ああ むらさきの母の紐よ
厨べに
味噌汁煮く匂いも
おぼろおぼろに