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なる所のものは凡そ人性の成り立ちより觀て相同じかるべきものにして美醜の判別に於いては諸人の從ふべき一定の標準あり。然るに唯だ感官上の快感は其の如く遍通的ならず、例へば一人の味官に快しと感ぜらるゝもの必ずしも他人の味官にしか感ぜらるべき筈なりと云ふ能はざるが如し。趣味の差別は相爭ふべきものならずとは唯だ感官上のものに就いていふべく觀美上のものに就いて云ふべからず。然らば觀美上の判定は何故に遍通的なるを得るか。曰はく觀美的判定に於いて言ひ現はす吾人の快感は主觀的なると共に又唯だ一物の形式にのみよりて起こさるゝものなるがゆゑなり、委しく云へば、其の物の形式(Form)が吾人の想像力と悟性との働き樣に適合し、而して凡そ人として想像力と悟性とを具ふる以上は其の物の形式が其れに適合する故を以て吾人に快しとせらるべき筈なればなり。斯くの如く形式的にして且つ主觀的なることと遍通的なることとを相離れざるものと見る是れカント哲學の全體に通じたる思想にして彼れの審美論に於いて亦其の根柢を成すものなりと知るべし。感官上の快感も美の快感と同じく主觀的なれども其は唯だ事物の形式によりて生ぜしめられず其の材質