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動的にして論理的作用を用ゐる知解は能動的なるの差別あるのみ。

吾人の知力には上に云へる論理的作用の外に實在其の物を看取する理智の作用あり、而して純理哲學は此の範圍の知識を以て成るものなり。此の知識の範圍に於いては吾人の理智其の物に生得の觀念としてにはあらで、唯だ其が本具せる法則として幾多の原理あり、例へば實體と云ひ、原因と云ひ、必然といふが如き觀念は本來吾人の理智に具はれる法則にして而して吾人は之れによりて實在其の物の相を認め得るなり、而して此等の原理を追求し行けば吾人は終に最高の存在者即ち神に到達することを得。

何故に吾人は我が理智に本具せる思想の法則に從ひて實在の相を認め得るか。カントはこゝにライブニッツの思想を取り來たり吾人の心と其の他の諸物との間に相應ずる一致の存在することを以て之れに答へ而して其の一致の根據は神に存すとなせり、言ひ換ふれば、諸物の間に相互の關係ある所以又吾人が外物を知識し得る所以は凡べて吾人と外物とに通ずる原因即ち神によりて能くし得ることなりと說けり。