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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/458

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我が目的とする所に達せむには吾人の必然に取らざるを得ざる道を謂へるものなり。理性と名づくるも畢竟自然科學上の知識を吾人が社會に於いて云爲することの上に應用したるものに外ならず、而して理性は吾人に吿ぐるに我が幸福が全く他人の幸福と相離しては得られざるものなることを以てす。凡べて吾人の行爲は皆利益の觀念によりて出で來たるものにして善人と云ひ惡人といふ其の區別は畢竟其の身體組織の如何と其の何を以て自己の幸福となすかとにかゝる。此の故に德行は他人の幸福を以て自己の幸福とならしむる術といふべきものなり(こゝに利益主義の道德說の說かれたるを見よ)。

自由の意志といふことは一種の迷妄なり、是れ唯だ神をして此の世に於ける罪惡の責に任ぜざらしめむが爲めに造り設けたる觀念に外ならず。若し意志が自由なるものにして全く自己の活動によりて隨意に或事柄を創始し得るものならば是れ全世界を改造する全能力を有すると同一なり、何となれば此の世界の一事を其の必然に在るべき所より改むといふは是れ取りも直さず全體を改むるといふことを意味すればなり。假令吾人に意志の自由なくとも世に刑罰を行ふべき理