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感官を有せざるものに取りて事物の感官上の性質の存せざるが如きなり。

然れども吾人の嘉みする所は必ずしも自己に快樂を來たすもののみならず己れの利福には毫も關係せざるが如き行爲にして吾人の道德上善しとすることあり。而してヒュームは之れを說かむが爲めに同情(sympathy)の作用を提出せり。以爲へらく、吾人は他人の快樂を感じ或は苦痛を感ずるを見て之れに同情す、而して之れに同情するがゆゑに快樂を來たす事柄をば善しとして之れを嘉みし苦痛を來たす事柄をば惡しとして之れを斥くと。而して同情の作用を說明せむが爲めにヒュームは其の常に用ゐる聯想律を持ち來たりて曰はく、吾人が或心身の狀態に在りし時に快樂又は苦痛を覺えたることある經驗を基として他人が同樣の狀態に在るを見るや其れに結ばり居る、換言すれば他人の感じ居る快樂又は苦痛を感ずるに至ると。斯くの如くヒュームに取りては他人の快樂又は苦痛に對する同情は道德上一切の是非褒貶の作用の根柢を成すもの也。約言すれば彼れはシャフツベリーの謂はゆる道德官を心理上分析して終に之れを行爲の結果たる快樂又は苦痛に同情する心となしたるなり。