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さる、吾人若し唯だ道義學者の謂はゆる善心によりてのみ動かさるゝこととならば社會の活動は忽ちにして其の動力を失ひ社會の繁榮は復た見るべからざるに至らむ。文明進步の動力は畢竟ずるに個々人が凡べて自己の利益を求むる欲念に存在す、醜惡なりとて之れを除き去るは是れ即ち社會の文化に進む動機を除去するなり、倫敦市街の糞土塵埃を全く除き去らむとするは取りも直さず其の繁榮を滅却するものなり。このゆゑに社會の文化は吾人の道德的性質を高むるによりて進むものにあらずして寧ろ唯だ利己心を裝ひ其の外面を美しくすることに在りて存するのみ。されば社會の文化の進めばとて之れに伴ひて個人の道德心の進むにもあらねば又個々人の滿足の進むにも非ず。もろ〳〵の欲望を充たす方便の增加すると共にまた新らしき欲望を生じ新しき不滿足を覺え來たる。若し欲望不滿足の增長することなくんば文明の進步は立どころに止まらむのみと。マンデヸルはかゝる見地よりして文明問題を揭げ來たれり。盖し彼れの功績は倫理學の上に於けるよりも寧ろ社會の文化に關する問題を提起せる點に在り。此の點に於いてマンデヸルはライブニッツ及びシャフツベリー等の說によりて代