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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/234

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所謂完全になるとは一には其の活動が活動する者の本性に相合することを意昧す、換言すれば、眞實の性より見て其の物の當さに在るべき樣に其の物の現實の樣の合したるが即ち完全なるなり、之れに加へて又吾人の行爲が行爲の結果と相調和することに完全といふことあり。所謂幸福は唯だ完全に達せる狀態に於いて附加せらるゝものに外ならず、眞正の幸福は吾人の良心が其の如き狀態に在ることを嘉みする所に存するもの也。ヺルフは斯く明らかに幸福と完全になることとを相分かちて道德上の目的を說けりしが故に倫理學上所謂完全說がライブニッツに於けるよりも彼れに於いて更に善く其の形を成せりと云ふべし。彼れ尙ほ以爲へらく、一個人の完全になることは他人の完全に成ることと相離れたるものにあらず、是れ吾人がおのづから夫婦親子及び主從の關係を成して一家を形づくり又家族相集まりて更に大なる社會を形づくることの必要なる所以なり。社會を組織したる民約の根據は畢竟ずるに人々各〻完全にならむとする目的に在り、國家全體の安寧を增進すること是れ國家の最高法律なり、安寧ならずんば人々相互に完全の域に達すること能はず、而して件の國家に於ける最高法律よりして凡