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ことを得べきか。論證によりて吾人は如何ほど神に關する知識を得べきか。此の點に於いてオッカムが吾人の道理上知り得となせる範圍はスコートスに於けるよりも更に窄まりて殆んど消滅するに至れりと謂ひつべし。彼れ曰はく、神の存在及び其の一なることは嚴密なる意味に於いて論證すること能はず果より因を推す論(是れ尙ほスコートスの以て神の存在を證し得べしと思惟したりし者)を以てするも遂に窮極的原因に到達することを必すべからず、何となれば因果の連鎖は端なき者にして何處に最初の原因あるかを定むべからずとも考ふるを得べく又假令最初の原因ありとするも其を唯一不二なりとすべき十分の理由なければ也。また靈魂が非物質のものにして不死なりといふことも道理上十分の證明を爲すべからず。三位一體論、萬物は無より創造せられたりといふ論、神が人間となりて化現したりといふ論の如きは啻に道理を以て證明す可からざるのみならず通常所謂道理に違反する所ありとも云ふことを得べしと。此くの如くオッカムに至りては神學は遂に正當なる意味に於いて學問とは謂ふ可からざるものとなり又宗敎上の事は道理を以て證明すべき限りのものに非ざることとなれり。