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び存すればなり。かく通性は個物に先きだちて存すとも考ふべからず、また個物の中に在りとも考ふべからず、唯だ吾人の槪念として存在すと視るべきものなりと。オッカムの唱へし所は唯名論とはいふものから最初ロッセリーヌス等が唱道せりし所とは同一ならず寧ろ槪念論とも謂ふべきもの也。されど個物以外に實在するものなし通性は實在物にあらずと說く點に於いて槪念論は唯名論と同一の立脚地にあり。

《其の知覺論、觀念標幟論。》〔九〕個物の外に實在する物なきが故に吾人が知識の本原となるものは個物を直識すること以外にあらず。吾人が直ちに個物を知覺する心作用を說くことに於いてオッカムはトマス及びスコートスと其の見を異にせり。トマス及びスコートスは以爲へらく、吾人の外物を知るや外物先づ吾人の感官に働き吾人の靈魂は之れに協力して(スコートスはトマスよりも此の靈魂の協力に重きを置けり)その外物の摸寫を造り而して靈魂は件の摸寫を觀て之れを知覺すと。即ちかゝる外物の摸寫(之れを species intelligibiles と名づく)の靈魂と外物との間に介するあるが如く思惟し靈魂が直接に外物を看取するに非ずとせり。オッカムは件の外物の「摸