Page:Onishihakushizenshu03.djvu/474

提供:Wikisource
このページは校正済みです

は理性の論證し得る範圍以上にあり。此等は論理を以て嚴密に證明することは爲し得ざれども亦其の全く有り得べからざる背理の者に非ざることを示すを得。約言すれば天啓は吾人の理性の及ばざる所を補ふものなり、卽ち其の關係は一が他の上に加はりてそを全くするにあり。トマスが兩者を和合せしめむとする方法は此の關係を以て根據とす。

《アリストテレース風の論法、萬物の段階。》〔六〕トマスは先づアリストテレースより得たる論法を以て神の存在を證明せむとし所謂第一原動者の無かる可からざることを以て論據となせり。以爲へらく、第一原動者是れ卽ち神にして彼れは純然たる相卽ち非物質のもの、全き現實のもの、他より定限せらるゝ所なきものなり、神は無より萬物を造化し出だしたり、原物質(最初の素卽ち諸物の可能性)亦其の造る所なり。

造化の森羅萬象は神の圓滿相を現はすもの語を換へて云へば素に於ける無限の可能性の實現せらるゝものなり。神は世界の太原また其の極致にして萬物は幾多の段階をなし神に向かひて進みゆく、其の下なる段階の目的は其の上なる段階に至らむとするに在り。