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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/439

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は知識に先だちてあるもの也。知識を開きて道理上推考することを爲し得ざる者は信仰を以て足れりとすべし然れども更に進みて知識に達し得る者に取りては信仰に加ふるに其の信仰の理由を以てせむは甚だ望ましきことなり、知識を添へたる信仰は單純なる信仰に優れりと。而して彼れの考ふる所によれば道理(知識)と信仰とは必ず相契合すべきものなるを以て假りに特別の天啓は無きものとしても唯だ吾人の理性に依りて推考して宗敎上の信仰を立し得べし。故に彼れの論法は吾人の通常謂はゆる理解力を用ゐ論理をたどりて辯證するに在り。此の點に於いて彼れの論はエリゲーナが直觀的知識を說けるとは其の趣を異にせり。之れを要するにスコラ哲學の辯證的論法はアンセルムスに依りて其の形を成したりと云ふを得べし。

《アンセルムスの神の存在に關する實體論上の論證及びその實在論的根據。》〔八〕アンセルムスの思想はプラトーン學派風の實在論に根據せり。其の根據は凡そ物遍通なるに從ひて愈〻實有に愈〻完全なりといふに在り。即ちプラトーンが五官に現はるゝ個物を最も實有に遠きものとして漸次イデアの界を溯りて實有の頂上に達することを說きしが如く個性に近づくに隨ひて實有愈〻減じ、通性