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存せりき。恐らくは愛蘭土の產なりしならむ。巴里なる宮廷の學校に聘せられて敎授たりき。彼れ始めてスコラ哲學の精神ともいふべき語即ち「眞正の宗敎は眞正の哲學なり眞正の哲學は眞正の宗敎なり」といふことを唱へ出でたり、盖し彼れは道理と敎會の敎義とを相並べて其の一致することを示さむとせしなり。故に彼れの論證は一方に於いては敎會の敎義を標準とし一方に於いては理性を根據とせり。されど彼れが實際爲す所を見れば寧ろ道理を獨立なるものとして之れに從へる傾向あり。而して彼れは固より公然敎會の敎理に反對することは爲さざりきと雖も其の道理と信仰とを調和せむとするや重きを道理に措きて之れに合はさむが爲めには敎會の敎ふる所を譬喩として解するに躊躇せざりき。

エリゲーナは其の標準とする所の理性を智識的直觀(intellectualis visio 或は intuitus gnosticus)と見たり。彼れが所謂理性とは唯だ論理の步武を追うて推理するものを謂ふにあらずして寧ろ眞理を直觀する者を謂ふ。彼れに從へば吾人の有し得る最高知識は思想と存在とを一致せしめたる直觀(intellectus)次ぎなるは論理を辿り行く推理作用(ratio)最下に位するは五官の知覺なり。理性的直觀を以て最高知識な