Page:Onishihakushizenshu03.djvu/395

提供:Wikisource
このページは校正済みです

神より出づれど神はこれが爲めに其の一部分を失ふに非ず。プローティノスの萬物が神より出づる關係を說くや多くは譬喩を用ゐたり、曰はく一切の物が自然に神の圓滿なる所より溢れ出づるは譬へば光線の太陽より發出するがごとし、神は自ら勞する所、思ふ所、變化する所なくして萬物はおのづから其の中より流れ出づと。プローティノスの哲學は即ち發出論なり。

《萬物發出の三段、一元的解釋。》〔六〕萬物の神より發出するや大凡そ三段をなす。第一に出づるものはヌウス(νοῦς)なり。ヌウスは萬物の太原(即ち神)より下ること一等なれどもなほ太原の影像にして常に完了せる直觀的思想なり而して其の思想の對境となるものは一は其れ自らにして、一は其の發出し來たりたる太原なり、但し其が太原の直覺は全く太原に相應せるにあらず。故にヌウスに至りては已に思想の働き(νόησις)と思想の對象(ὃλη νοητόν)との對峙を含み差別の根原を具へ居れるなり。次ぎに出で來たるものを精神(ψυχή)とす。プローティノスは精神に高き方と低き方とを分かてり。高き精神は自覺を具へ凡べての永恒なる理想を有して活動するもの低き精神は形體に結ばれるもの也。プローティノスは宇宙全體を通貫する大精神ありと見プ