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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/359

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《眞理標準論。》〔六〕かゝる物理說を取れる所より其の知識論即ち眞理の標準論(此の學派にてはカノニックと名づく)もおのづから感覺說なり。以爲へらく凡べて吾人の觀念は皆五官の感覺より來たるを以て眞理の標準は畢竟ずるに感官の知覺に訴へざるべからずと。此の派の感覺的經驗論は其の唯物論と同じくストア學派の知識論に存せるものよりも更に單純又著明なり。

《個人的快樂說。》〔七〕エピクーロス學派に於いては其の物理論及び知識論は前にも云へる如く道德論の附屬物なり。而して彼等の說が物理論上原子論なる如く道德論に於いては個人的快樂說なり。以爲へらく、個人は各〻獨立のものにして自家の快樂を得るを目的とす我が快樂以外に善しと云はるべきものなく苦痛以外に惡しと云はるべきものなし。されど吾人は眼前の快樂をのみ觀るべからず或快樂は却つて多くの苦痛を招致する恐れあるを以て吾人は快樂を較量選擇せざるべからず而してそをなすものは即ち知見(φρόνησις)なり。故に知見は德の根本なり、種々の德は知見が種々の塲合に應じて働けるものに外ならず。

《平靜なる快樂、アタラクシア。》〔八〕快樂には欲求を充たす働(即ち運動)によりて起こる動的快樂(ἡδονή ἐν κίνησει