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り。然れども此の派の學者はキニク學徒の唱へし如く一切外物に待つ所なく力めて吾人の欲望を箝制せよとは云はず、吾人の快樂を享くるや外物に依る所あるを認許せり。然るに吾人の此の世に處するや必ずしも常に安樂を得べき地に居る能はず、人世却りて不如意の事多く不幸の中に住む者多し。是に於いてか此の派のへーゲーシアス(Ἡγησίας 紀元前三百年頃の人)は說をなして曰はく、快樂を得ずとも苦痛なき狀態に在らば吾人は已に幸福を得たりと云はざるべからず、歡樂を盡くさむと求めむよりも寧ろ苦痛なき狀態に在ることに滿足せざる可からず、而して如何にしても苦痛を脫し得ざる境遇に居る者は寧ろ死するの優れるに如かざるなりと。彼れは死を勸むる人てふ綽名を得たり。斯くの如くキレーネ學派の快樂說はへーゲーシーアスに至りて遂に消極的となりて厭世論の臭味を帶ぶるに至れり。