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說はメガラ學徒の論の如く結局通常謂ふところの立言(即ち一事物に就いて或事柄を言ひ立つること)を以て不可能のこととなすに至る。唯だ吾人の言ひ下し得るは分析的判定(即ち旣に主語に含み居る事柄を分析し出だして之れを客語に言ひ表はすもの)のみ。此の故に吾人が槪念を用ゐて定義を下し得る事物は分析し得らるべきものならざる可からず分析し得べからざる單一のものに就いては槪念的知識を形づくること能はず。かくの如き單一のものは唯だ吾人の五官を以て直接に感覺し得るのみ。是に於いてキニク學徒の知識論は終に感覺說となり了はれり、以爲へらく吾人の元來知り得る所は感官に觸るゝものの外に出でずと。此の如き感覺的知識論とは全く異なれる立ち塲を取れるプラトーンのイデア論(後章を看よ)をアンティステネース及びディオゲネースは口を極めて嘲りきとぞ。

キニク學徒の知識論は前述の如くメガラ學徒の說く所と頗る相似たる所あれど畢竟彼等はメガラ派の如く論理的硏究を事とせず寧ろ專ら實行的方面に著眼したりしが故に彼等は多く重きを學問に置くことなかりき。アンティステネース自らも吾人の德は實行に在り多くの言葉と知識を要せずと云へり。