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故に古人も始めあらずといふ事なし、能終有事すくなしと誡められしとかや。

 學文と云ものは、第一聖人賢人の金言妙なるを見つ聞つしては、心を淳直にして身の行を宜く致し、古今の事に行渡り、才も働き、智も廣くせんが爲也、然るに心身の嗜は脇へなし、邪智盛に口かしこく成りて、萬事に理屈ばり、人を譏り侮り、上々の不出來ものとなり、附合れもせぬ樣にて、學問せざる以前大きに增し成るもの必ある事也、これ學文惡きと云ふにてはなけれ共、習樣の惡敷、敎方も宜しからぬ故とみへたり、されば愸にケ樣の筋の學問をせんよりは、生れつきの本心を失はず、正理にたがはぬ樣にと工夫し、人にも尋問て一ツ心と行とを以、寫し嗜むべき事なり、夫故古の賢人も君父につかへ眞實にさへあれば、一文不通にても大學者也と申されしとかや、學問も致し、心行ともに宜しきは申に及ばぬ事なれ共、學問せねば叶はぬといふ事にてもあるまじ、殊に人の上たる者は慈悲愛憐第一の學問と見へたり。

 萬の物何によらず、それの能あり、材木にていはゞ松は松の用あり、檜は檜の用ひあり、其用に隨ひ用れば甚重寳に成事也、松を可用處へ檜を用ひ、檜をつかふべき所へ松を用ゆれば、其能違て役にたゝず、人の仕樣猶以同じ理と覺ゆる、子細は人々生れ付や得手不得手あり、自分眼力、さては頭たる者の目利にて、何役に成とも申付候時、其者不得手の職をいたさせては、持前才能曾て見へず、其時に至りて我眼力の明かならざるか、頭人の吟味委しからざるかと、自分省察の工夫は外にな