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 彼は突然、振り向きざま、幹子の頰を撲りつけた。あっと小さく呼んで蹣跚めく、頭といわず、顔といわず夢中で撲りつづけた。拳の両を避けて俯伏したまま、それでも凝っと耐えている幹子の剛情に、信作は堪らなくなり、傍にあった灰皿を取るなり、力一杯投げつけた。皿は幹子の頭にあたり、鈍い音とともに微塵に砕け散った。周章てておさえた白い指の間から、やがて真赤な血がにじみ出してきた。それは徐々に指間を伝わり、甲に赤い線を引いて、滴りおちた。幹子は凝っと痛みを耐えているのか、動かない。信作は後悔した。がすぐに後悔した自分に腹が立って来た。信作は大きく腕をふって戸外に出た。

 雨は止み、白く乾いた舗道には、黄色の薄陽が射していた。自転車に乗った小僧が、黙って、一直線に疾走っていった。

 信作は歩いた。が時々歩くことが厭になった。そういう時は立ち停った。が立っていても仕方がないので、又歩き出した。どの店にも客らしい人の姿は見えない。

 突然、紙をめくるように、日が陰った。街衢の相貌は一シンにして、暗欝となり、湿気を含んだ風が、颯と襟をかすめた。

 信作は、ゆっくりと歩きつづけた。物佗しい四囲の風光は、彼に昨晚宿った淫売宿を思い出させた。サイタ、サイタ、サクラガ、サイタ。黄色くくすんだ穢い壁に、幼い字でそんな文句が楽ママ書してあった。子供の字か、それとも子供と別れた無学な母親の手か。そんなことを、彼は夜っぴて考えていた――。ふと、その時、横手の露地からまぐれ出た一匹の犬に眼が留った。

 犬は尾を垂れ、何か物欲しそうな恰好で、下水板に鼻をこすりつけてくんくん嗅ぎながら、暫らく信作を同じ方向に跟いて来たが、何を思ったか、急に車道の中にふらふらとまがりこんでいった。が五六尺出たかと思う時、突然起ったけたたましい自動車の警笛に、憐れなほど吃驚仰天したかの犬は、尾をまるめ、ひらたくなって逃げ戻ったかと思うと、とある露地に、つと、その姿を匿してしまった。