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日陰る

於泉信夫

「キタハラキトクスグ コイ。」の電報を受け取ったのは、明け方の六時だった。信作は朝食も摂らず、倉皇と家をたったが、のろくさい郊外電車に一時間半も揺られて、やっと病院についた時には、既に北原の遺骸は安置室に運ばれてあり、信作はそこで北原の死顔に接した。

 癩とはいえ、まだ軽症な北原の面貌は蠟細工のように冷たく透きとおり、やや開いている唇のあたりには、生前よく見馴れた皮肉な微笑が泛んでいるようで、長くは凝視出来なかった。

 掌を合わせ、瞑目したが、なんの祈りも湧かなかった。死とはこんなにも率爾たるものなのだろうか。信作は何か期待外れのした、軽蔑したいような腹立たしさを覚え、妙な感情の纏絡に苦しんだ。

 手拭をもとのように顔に懸け、一揖して安置室を出ると、信作は、屋根を覆うて亭々と立ち並ぶ松の梢󠄁を仰ぎ、いろいろの形に区切られた深い空に、暫らくの間、纏まらぬ感情を放散させていたが、やがて表に廻った。

 表は葬儀執行場になっていた。葬儀のすんだがらんとした部屋に四五人の友が、彼を待っていた。信作はそれらの人々の挨拶にいちいち叮嚀に応え、一緒になって歩き出した。信作はあまり口がききたくなかった。 がそれでも、なにかにと話しかけるのには、努めて受け応えを怠らなかった。

 北原のいた舎に上り、小一時間程茶を啜りながら雑談しているうちに、同じ電報で服部が上気した円い顔を現わした。服部は部屋に上りこむなり、上衣を脱ぎすて、手巾を出して顔中を拭きまわしながら信作に話しかけた。

鳴海なるみ、早かったな。」

「うん。だけど間に合わなかった。駅を降りると、馳足でやってきたんだが、あの坂の所で看護婦の飯沼さんに遭い、北原の死んだことをきき、がっかりしちゃったよ。それからゆっくり歩いて来た。急ぐだけ損だと思ってね。」

 信作は軽く笑った。服部は掌をうって笑った。一座は暫らくざわめいた。

「而し、こんなに早く死ぬとは思わなかったよ。この前来た時には、まだまだ一日や二日で死ぬとは思えぬ元気だったからなァ。」

「いや、どうせ死ぬなら、早い方がいいよ。苦しみが少いだけでもいいからな――。

 北原のやつ、今頃何処をうろついているかな。天国では入れまいし、地獄でも一寸手に負えんからなァ。 やはり懐手をしたまま、ふらふらしているんだろう。ははは……。」

 服部の冗談から座は弾み、北原が「癒ったら退室祝いに食うんだ。」と蔵っておいた見舞品の缶詰なども開けられ、二人は夕頃まで過し、晩飯の馳走になって病院を辞する頃は、もうすっかり黄昏れて、療舎には電燈の灯る刻限になっていた。

 夕靄の立ち罩めた雑木林を縫うて、細く続く白い径を、信作は、乾いた寂寥に黙々と歩いた。

 閑散な郊外電車に乗ってからも、信作は堅いクッションに凭れたまま、黙然と考え込んでいた。