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又神の坐トコロなどにこそ、かつも此イミは物すめれ、なべては然る事さらになきは、火のケガレなどいふをば、オロカなることゝおもふ、なまさかしらなる漢意カラゴゝロのひろごれるなり、かくて神御典カミノミフミ釋誨トキヲシふる世々の識者モノシリビトたちすら、たゞ漢意カラゴゝロの理をのみ、うるさきまで物して、此イミコトをしも、なほざりにすめるは、いかにぞや、

ほどにあるべきかぎりのわざをして、オダヒしくタヌシく世をわたらふほかなかりしかば、

かくあるほかに、ナニヲシヘごとをかもまたむ、抑みどりに物敎へ、又諸匠テビトヾモ物造モノツクるすべ、其外よろづの伎藝コトナルワザなどを敎ふることは、上代にも有けむを、かの儒佛などの敎事ヲシヘゴトも、いひもてゆけば、これらとコトなることなきにたれども、ワキマふれば同じからざることぞかし、

今はた其道といひて、コトに敎ウケて、おこなふべきわざはありなむや、

然らば神の道は、からくにの老莊が意にひとしきかと、或人の疑ひへるに、答けらく、かの莊老がともは儒者のさかしらをうるさみて、自然オノヅカラなるをたふとめば、おのづからたることあり、されどかれらも、大御神の御國ならぬ惡國キタナキクニに生