く坐まさば、莫まつろひそとは詔たまはずあれば、善く坐むも惡く坐むも、側よりうかゞひはかり奉ることあたはず、天地のあるきはみ、月日の照す限は、いく萬代を經ても、動き坐ぬ大君に坐り、故古語にも、當代の天皇をしも神と申して、實に神にし坐ませば、善惡き御うへの論ひをすてゝ、ひたぶるに畏み敬ひ奉仕ぞ、まことの道には有ける、然るを中ごろの世のみだれに、此道に背きて畏くも大朝廷に射向ひて、天皇尊をなやまし奉れりし、北條義時泰時、又足利尊氏などが如きは、あなかしこ、天照日大御神の大御蔭をもおもひはからざる穢惡き賊奴どもなりけるに、禍津日神の心はあやしき物にて、世人のなびき從ひて、子孫の末まで、しばらく榮え居しことよ、抑此世を御照し坐ます天津日神をば、必たふとみ奉るべきことをしれども、天皇を必畏こみ奉るべきことをば、しらぬ奴もよにありけるは、漢籍意にまどひて彼國のみだりなる風俗を、かしこきことにおもひて、正しき皇國の道をえしらず、今世を照しまします天津日神卽天照大御神にましますことを信ず、今の天皇、すなはち天照大御神の御子に坐ますことを忘れたるにこそ、