坐スが如く、下なる人どもゝ、事にふれては、福を求むと、善神にこひねぎ、禍をのがれむと、惡神をも和め祭り、又たま〳〵身に罪穢もあれば、祓淸むるなど、みな人の情にして、かならず有ルべきわざなり。然るを、心だにまことの道にかなひなば、など云めるすぢは、佛の敎へ儒の見にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚くそむけり。又異國には、神を祭るにも、たゞ理を先にして、さま〴〵議論あり。淫祀など云て、いましむることもある、みなさかしらなり。凡て神は、佛などいふなる物の趣とは異にして、善神のみにはあらず、惡きも有リて、心も所行も、然ある物なれば、惡きわざする人も福え、善事する人も、禍ることある、よのつねなり。されば神は、理リの當不をもて、思ひはかるべきものにあらず。たゞその御怒を畏みて、ひたぶるにいつきまつるべきなり。されば祭るにも、そのこゝろばへ有リて、いかにも其神の歡喜び坐スべきわざをなも爲べき。そはまづ萬ヅを齋忌淸まはりて、穢惡あらせず、堪たる限リ美好物多に獻り、或は琴ひき笛ふき歌儛ひなど、おもしろきわざをして祭る。これみな神代の例にして、古ヘの道なり。然るをたゞ心の至り至らぬをのみいひて、獻る物になすわざにもかゝはらぬは、漢意のひがことなり。さて又神を祭るには、何わざよりも先づ火を重く忌淸むべきこと、神代ノ書の黃泉段を見て知ルべし。是は神事のみにもあらず、大かた常につゝしむべく、かならずみだりにすまじきわざなり。もし火穢るゝときは、禍津日ノ神ところをえて、荒び坐スゆゑに、世ノ中に萬ヅの禍事はおこるぞかし。かゝれば世のため民のためにも、なべて天ノ下に、火の穢は忌まほしきわざなり。今の代には、唯神事のをり、又神の坐ス地などにこそ、かつ〴〵も此ノ忌は物すめれ。なべては然る事さらになきは、火の穢などいふをば、愚なることゝおもふ、なまさかしらなる漢意のひろごれるなり。かくて神御典を釋誨ふる世〻の識者たちすら、たゞ漢意の理をのみ、うるさきまで物して、此ノ忌の說をしも、なほざりにすめるは、いかにぞや。
ほど〳〵にあるべきかぎりのわざをして、穩しく樂く世をわたらふほかなかりしかば、
かくあるほかに、何の敎ごとをかもまたむ。抑みどり兒に物敎へ、又諸匠の物造るすべ、其外よろづの伎藝などを敎ふることは、上ツ代に、有リけむを、かの儒佛などの敎事も、いひもてゆけば、これらと異なることなきに似たれども、辨ふれば、同じからざることぞかし。
今はた其ノ道といひて、別に敎ヘを受て、おこなふべきわざはありなむや。
然らば神の道は、からくにの老莊が意にひとしきかと、或人の疑ひ問へるに、答ヘけらく、かの老莊がともは儒者のさかしらをうるさみて、自然なるをたふとめば、おのづから似たることあり。されどかれらも、大御神の御國ならぬ、惡國に生れて、たゞ代〻の聖人の說をのみ聞なれたるものなれば、自然なりと思ふも、なほ聖人の意のおのづからなるにこそあれ、