緒言
文字は 言語を 遠く運ぶため,永く後に遺すため, 紙に寫して 目に見せる符牒;言語は 心に起る思想 を 口から耳に吹き込む音響;思想は 刹那利那に閃 く 生命の感興である 感興も 明に纒まらねば 思 想と成らず;思想も 爽に響かねば 言語と成らず;言 語も 美しく寫らねば 文字と成らぬ。故に,文字が 善からねば 言語を惡くし;言語が 足らねば 思想を 貧くし;思想が 弱ければ 生命を殺すやうに成る。 かくて,單に符牒に止まると云はるゝ其文字の良否に 由りて,而も國家の盛衰を釀し,民衆の禍福を招く; 漢字亡國論を唱ふるも 決して過言で無い,失語で無 い。
漢字の由來と將來
應神の朝,百濟の王仁が 來,論語や千字文を獻じてから 千五百 年,漢字の御蔭で,老莊や孔孟の道は 言ふに及ぼず, 凡ゆる支那の 文物は 悉く我國に傳へられ, 續いて印度文明の佛敎までも わざわ さ取り次がれて,我國の思想を養ひ,言語を殖やし,文字を使はしめ た大恩は 容易く量り切り,數へ盡せるもので無い。今日,もし漢 字や漢語が無ければ,わが國民は 迚も その不便、堪へず,一日も 活きて居られまいかと思はるゝほど,一字は 千金にも二千金にも當 るに違ひ無い。
併し,漢字は エジプトの繪文字の やつと一步 進んだ位のもの, 全く前世界に屬する銀杏の樹か山柿魚の格で,今世紀に於て盛に繁殖 すべきものでは有るまい。予の如き,所謂 漢學の素養なき者には, 幾萬か有る漢字の內で,僅に二千足らずの文字をも知らぬ位で,幾十 萬の貴い漢籍も,あり難い無數の佛典も,少からぬ珍しい碑文も丸 で猫に小判と同じく,誠に申譯の致しやうも無く,恥に恥の上塗れ重 ね居る次第なるが,それでも,尙 世の先覺者の末席を瀆して居る。 而も,幾千萬の同胞が 予と同じく,或は 予よりも 更に甚しく明 盲目の苦みや,知字有患の歎に沈み居るのでは有るまいかと 深く案 じられる。ただ千五百年と 口で數へるのは 左程でも無いが,實 は決して短い歲月では無い。その永い間,我等 生れては 支那の 夕日に 後姿を暈かされ,動いては 重い漢字の取り扱ひに 持て餘 して居る。いや それどころか,主たる我が國語が 從たる支那の 漢字と互に位置を轉倒し,今は殆ど漢字に基いて 語り,漢語に賴り 考へると云ふほどの不自然な狀態に陷つて居る。