辨道してその證をとるへし。すてに佛正法をあきらめえん人は、坐禪なにのまつところかあらむ。しめしていはく。癡人のまへにゆめをとかす、山子の手には舟棹をあたへかたしといへとも、さらに訓をたるへし。それ修證は一つにあらすとおもへる、すなはち外道の見なり。佛法には修證これ一等なり。いまも證上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本證の全體なり。かるかゆゑに修行の用心をさつくるにも、修のほかに證をまつおもひなかれとをしふ、直指の本證なるかゆゑなるへし。すてに修の證なれは、證にきはなく。證の修なれは、修にはしめなし。ここをもて釋迦如來、迦葉尊者、ともに證上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなしく證上の修に引轉せらる。佛法住持のあと、みなかくのことし。すてに證をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を單傳せる初心の辨道。すなはち一分の本證を無爲の地にうるなり。しるへし修をはなれぬ證を染汙せさらしめんかために、佛祖しきりに修行のゆるくすへからさるとをしふ。妙修を放下すれは本證手の中にみてり、本證を出身すれは、妙修通身におこなはる。又まのあたり大宋國にしてみしかは、諸方の禪院みな坐禪堂をかまへて、五百六百およひ一二千僧を安して、日夜に坐禪をすすめき。その席主とせる傳佛心印の宗師に、佛法の大意をとふらひしかは、修證の兩段にあらぬむねをきこえき。このゆゑに、門下の參學のみにあらす。求法の高流、佛法のなかに眞實をねかはむ人、初心後心をえらはす、凡人聖人を論せす、佛祖のをしへにより、宗匠の道をおうて、坐禪辨道すへしとすすむ。きかすや祖師のいはく。修證はすなはちなきにあらす。染汙することはえし。又いはく。道をみるもの、道を修すと。しるへし得道のなかに修行すへしといふことを。とふていはく、わか朝の先代に教をひろめし諸師、ともにこれ入唐傳法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、たた教をのみつたへし。しめしていはく、むかしの人師この法をつたへさりしことは、時節のいまたいたらさりしゆゑなり。とふてい
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