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き何らの餘剩を生じないところの、この所󠄃得を廢絕しようとするのではない。我々はただこの所󠄃得の悲󠄃慘な性質、すなはち勞働者󠄃が資󠄄本を增大するためにのみ生活し、支配階級の利益󠄃がそれを要󠄃求する間だけ生活しうるといふ、その悲󠄃慘な性質をなくしようとするのである。

 ブルジョアの社󠄃會にあつては、生きた勞働者󠄃は、ただ、集積された勞働を增大する一つの手段になる。共產主義の社󠄃會にあつては、集積された勞働が、ただ勞働者󠄃の生活を擴大し、豐富にし、增進󠄃させる手段になる。

 故にブルジョアの社󠄃會にあつては、過󠄃去が現在を支配し、共產主義の社󠄃會にあつては、現在が過󠄃去を支配する。ブルジョアの社󠄃會にあつては、資󠄄本は獨立的であり、個性的であるのに、生きた人間は從屬的であり、非個性的である。

 しかるにブルジョアジーは、かういふ諸󠄃關係の廢絕を目して、個性の廢絕! 自由の廢絕! といふのである。しかし無理もない。これはいかにも、ブルジ