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一人あまたつれて花見ありきしに、最勝光院の邊にて、をのこ馬をはしらしむるを見て、「いま一度馬をはするものならば、馬たふれて落つべし。しばし見給へ」とて立ちとまりたるにまた馬を馳す。とゞむる所にて馬を引きたふして、乘れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを人みな感ず。
一當代いまだ坊におはしましゝ頃、萬里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿〈師信〉伺候し給ひし御さうじへ御用ありて參りたりしに、論語の四五六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱うばふことを惡むといふ文を御覽ぜられたきことありて、御本を御らんずれども御覽じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて求むるなり」と仰せらるゝに、「九の卷のそこそこのほどに侍る」と申したりしかば、「あなうれし」とてもてまゐらせ給ひき。かほどのことは、ちごどもゝ常のことなれど、昔の人はいさゝかのことをも、いみじく自讃したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と一首のうちにあしかりなむや」と定家卿にたづね仰せられたるに、「秋の野の草のたもとか花すゝきほに出てまねく袖とみゆらむとはべれば、何事かさふらふべき」と申されたることも、「時にあたりて本歌を覺悟す、道の冥加なり。高運なり」などことごとしく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款狀にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讃せられたり。
一常在光院のつき鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣淸書して、いかたにうつさせむとせしに、奉行の入道かの草をとり出でゝ見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば聲百里