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ふるゝ所の益なり。心さらにをこらずとも、佛前にありてずゞをとり經をとらばをこたるうちにも善行おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床に座せば、おぼえずして禪定なるべし。事理もとより二つならず。外相もしそむかざれぱ、內證かならず熟す。しひて不信といふべからず。あふぎてこれをたふとむべし。

「盃のそこをすつることはいかゞ心えたる」とある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當と申しはべれば、底に凝りたるをすつるに候ふらむ」と申し侍りしかば、「さにはあららず。魚道なり。流を殘して口のつきたる所をすゝぐなり」とぞ仰せられし。

「みなむすびといふは絲をむすび重ねたるが、蜷といふ貝に似たればいふ」とあるやんごとなき人仰せられき。になといふはあやまりなり。

門に額かくるを、うつといふはよからぬにや。勘解由小路二品禪門〈行忠〉は、「額かくる」とのたまひき。見物の棧敷うつもよからぬにや、ひらばりうつなどはつねの事なり。棧敷構ふるなどいふべし。護摩たくといふもわろし。修する護摩するなどいふなり。「行法も、法の字をすみていふわろし。濁りていふ」と淸閑寺僧正〈道我〉仰せられき。常にいふ事にかゝることのみ多し。花の盛は、冬至より百五十日とも、時正の後七日ともいへど、立春より七十五日おほやうたがはず。

遍照寺の承仕法師、池の鳥を日ごろかひつけて、堂の內まで餌をまきて、戶ひとつをあけたれば、數もしらず入りける後、おのれも入りて、立て籠めて捕へつゝ殺しけるよそほ