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りて候ふ」といふ。「そのやすら殿は男か法師か」とまたとはれて、袖かきあはせて、「いかゞさふらふらむ、かしらをば見候はず」と答へ申しき。などか頭ばかりの見えざりけむ。

赤舌日といふ事、陰陽道には沙汰なきことなり。むかしの人これを忌まず、このごろなにものゝ出でゞ忌みはじめけるにか「この日あること末とほらず」といひて、「その日いひたりしこと、したりしことかなはず、得たりしものは失ひ、くはだてたりしこと成らず」といふ、おろかなり。吉日をえらびてなしたるわざの末とほらぬを、かぞへて見むもまたひとしかるべし。その故は無常變易のさかひ、ありと見るものも存せず、始あることもをはりなし。志は遂げず望は絕えず、人の心不定なり。ものみな幻化なり。何事かしばらくも住する。この理を知らざるなり。「吉日に惡をなすにかならず凶なり。惡日に善を行ふにかならず吉なり」といへり。吉凶は人によりて日によらず。

ある人弓射ることをならふに、もろ矢をたばさみて的にむかふ。師のいはく、「初心の人ふたつの矢をもつことなかれ。後の矢をたのみて初の矢になほざりの心あり。每度たゞ得失なく、この一箭に定むべしとおもへ」といふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろそかにせむと思はむや。懈怠の心みづから知らずといへども、師これを知る。このいましめ萬事にわたるべし。道を學する人、夕には朝あらむことを思ひ、あしたには夕あらむことを思ひて、重ねてねんごろに修せむことを期す。いはむや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らむや。なんぞたゞ今の一念において、たゞちにすることのはなはだかたき。