Page:Kokubun taikan 09 part2.djvu/297

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書寫の上人〈性空〉は、法事讀誦の功つもりて、六根淨にかなへる人なりけり。旅のかりやに立ち入られけるに、豆のからをたきて、豆を煮ける音のつぶつぶとなるを聞き給ひければ、「うとからぬおのれらしも、うらめしく、われをば煮て、からきめを見するものかなといひけり。たかるゝ豆がらのはらはらと鳴る音は、わが心よりすることかは。やかるゝはいかばかり堪へがたけれども、力なきことなり。かくな恨み給ひそ」とぞきこえける。

元應の淸暑堂の御遊に、玄上はうせにしころ、菊亭のおとゞ〈兼季〉牧馬を彈じたまひけるに、座についてまづ柱をさぐられたりければ、ひとつ落ちにけり。御ふところにそくひをもち給ひたるにて、つけられにければ、神供の參るほどに、よくひてことゆゑなかりけり。いかなる意趣かありけむ、物見けるきぬかづきのよりてはなちて、もとの樣におきたりけるとぞ。

名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心ちするを、見るときは、又かねて思ひつるまゝの顏したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、このごろの人の家のそこほどにてぞありけむと覺え、人も今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかくおぼゆるにや。またいかなるをりぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、我が心のうちも、かゝることのいつぞやありしかとおぼえて、いつとは思ひいでねども、まさしくありし心ちのするは、我ばかりかく思ふにや。

いやしげなるもの、居たるあたりに調度のおほき、硯に筆のおほき、持佛堂に佛のおほき、前栽に石草木のおほき、家のうちに子孫のおほき、人にあひて詞のおほき、願文に作善おほく