Page:Kokubun taikan 09 part2.djvu/287

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ある人淸水へまゐりけるに、老いたる尼のゆきつれたりけるが、道すがら「くさめくさめ」といひもて行きければ、「尼御前何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、いらへもせず、なほいひやまざりけるを、たびたびとはれてうち腹だてゝ、「やゝ、はなひたる時かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、やしなひ君の比叡の山におはしますが、たゞ今もはなひ給はむとおもへば、かく申すぞかし」といひけり。ありがたき志なりけむかし。光親卿、院〈後鳥羽〉の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御をいだされてくはせられけり。物くひちらしたるついがさねを、御簾の中へさし人れてまかりいでにける。女房「あなきたな、誰にとれとてか」など申しあはれければ、「有職のふるまひやんごとなき事なり」とかへすがへす感ぜさせ給ひけるとぞ。

老きたりて、始めて道を行ぜむと待つことなかれ。ふるき塚おほくはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らむとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれることは知らるなれ。あやまりといふは他の事にあらず、速にすべき事をゆるくし、ゆるくすべき事を急ぎて、過ぎにしことのくやしきなり。その時悔ゆともかひあらむや。人はたゞ無常の身にせまりぬることを、心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり。さらばなどかこの世の濁りもうすく、佛道をつとむる心もまめやかならざらむ。「昔ありけるひじりは、人きたりて自他の要事をいふとき、答へていはく、今火急の事ありて、既に朝夕にせまれりとて耳をふたぎて念佛して、終に往年を遂げゝり」と禪林の十因にはべり。心戒といひ