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Page:Kokubun taikan 09 part2.djvu/273

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じとて繩をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらむ何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」とてその後は參らざりけると聞きはんべるに、綾の小路の宮〈性惠法親王〉のおはします小坂殿の棟に、いつぞや繩をひかれたりしかば、かのためし思ひ出でられ侍りしに、「まことや鳥のむれゐて、池の蛙をとりければ、御覽じかなしませ給ひてなむ」と人の語りしこそさてはいみじくこそとおぼえしか。德大寺にもいかなるゆゑか侍りけむ。

神無月のころ栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入ること侍りしに、遙なる苔の細道をふみわけて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉にうづもるゝかけひのしづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊紅葉など折りちらしたるさすがに住む人のあればなるべし。かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしくかこひたりしこそすこしことさめて、この木なからましかばと覺えしか。

おなじ心ならむ人と、しめやかに物がたりして、をかしき事も世のはかなき事も、うらなくいひ慰まむこそ嬉しかるべきに、さる人あるまじければ、露たがはざらむとむかひ居たらむは、ひとりある心ちやせむ。たがひにいはむほどの事をば、げにと聞くかひあるものから、いさゝかたがふ所もあらむ人こそ、我はさやは思ふなどあらそひにくみ、さるからさぞともうちかたらはゞ、つれづれ慰まめと思へど、げには少しかこつかたも、我とひとしからざらむ人は、大かたのよしなしごといはむほどこそあらめ、まめやかの心の友には、遙にへだゝる