Page:Kokubun taikan 09 part2.djvu/214

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賞しきりに瀧山のあとをつぎて、將軍のめしをえたり。營館をこの所にしめ、佛神をその砌にあがめ奉るよりこの方、今繁昌の地となれり。中にも鶴岡の若宮は、松栢の綠愈しげく、蘋繁のそなへかくることなし。陪從をさだめて、四季の御かぐら怠らず。職掌に仰せて、八月の放生會を行はる。崇神のいつくしみ、本社にかはらずと聞ゆ。二階堂〈永福寺〉はことにすぐれたる寺なり。鳳の甍日にかゞやき、鳧の鐘霜にひゞき、樓臺の莊嚴よりはじめて、林池のあとに至るまで、殊に心とまりてみゆ。大御堂ときこゆるは、石巖のきびしきをきりて、道場のあらたなるを開きしより、禪僧庵をならぶ。月おのづから祇宗の觀をとぶらひ、行法座を重ね、風とこしなへに金磐の響をさそふ。しかのみならず、代々の將軍以下、つくりそへられたる松の社、蓬の寺町々にこれおほし。その外由比の浦と云ふ所に、阿彌陀佛の大佛をつくり奉るよし、語る人あり。やがて誘ひて參りたれば、尊く有難し。事の起りを尋ぬるに、本は遠江の國の人、定〈淨歟〉光上人といふものあり。過ぎにし延應の頃より、關東の高き卑しきを勸めて、佛像を造り、堂舍を建てたり。その功すでに三が二に及ぶ。烏瑟たかくあらはれて、半天の雲に入り、白毫あらたにみがきて、滿月の光を耀かす。佛はすなはち兩三年の功すみやかになり、堂は又十二樓のかまへ望むにたかし。彼の東大寺の本尊は、聖武天皇の製作金銅十丈餘の廬舍那佛なり。天竺震旦にもたぐひなき佛像とこそきこゆれ。此の阿彌陀は、八丈の御長なればかの大佛の半よりもすゝめり。金銅木像のかはりめこそあれども、末代にとりては是も不思議といひつべし。佛法東漸の砌にあたりて、權化力を加ふるかと有難くおぼゆ。かやうの