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 「さゆる夜に誰こゝにしもふしわびて高ねの雪を思ひやりけむ」。

田子の浦にうち出でゝ、ふじの高ねを見れば、時わかぬ雪ならねども、なべていまだ白妙にはあらず。靑うして天によれる姿、繪の山よりもこよなうみゆ。「貞觀十七年冬の頃、白衣の美女二人ありて、山の頂にならび舞ふ」と都良香が富士の山の記〈本朝文粹〉にかきたり。いかなる故にかと覺束なし。

 「ふじのねの風に漂ふ白雲を天つ少女の袖かとぞみる」。

浮島が原はいづくよりもまさりてみゆ。北はふじの麓にて、西東へはるばると長き沼あり。布をひけるが如し。山の綠影をひたして空も水もひとつなり。芦かり小舟所々に棹さして、むれたる鳥多くさわぎたり〈るイ〉。南は海のおもて遠く見わたされて、雲の浪煙の浪いとふかきながめなり。すべて孤島の眼に遮るなし。わづかに遠帆の空に連なれるを望む。こなたかなたの眺望、いづれもとりどりに心細し。原には鹽屋の煙たえだえ立ちわたりて、浦風松の梢にむせぶ。此の原昔は海の上に浮びて、蓬萊の三つの島〈蓬萊方丈瀛洲〉の如くにありけるによりて、浮島となむ名づけたりと聞くにも、自ら神仙のすみかにもやあらむ、いとゞ奧ゆかしくみゆ。

 「影ひたす沼の入江にふじのねの煙も雲も浮島が原」。

やがて此の原につきて、千本の松原といふ所あり。海の渚遠からず。松はるかに生ひわたりて、みどりの影きはもなし。沖には舟どもゆきちがひて、木のはのうけるやうにみゆ。かの「千株の松下雙峰の寺、一葉の舟中萬里の身」〈朗詠〉とつくれるに、彼も是もはづれず。眺望いづく