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さても此の宿に、一夜とまりたりしやどあり。軒ふりたる萱〈藁イ〉家の所々まばらなるひまより、月のかげくまなくさし入りたるをりしも、君どもあまた見えし中に、すこしおとなびたるけはひにて「夜もすがら床の下に晴天をみる」〈朗詠〉と忍びやかにうち詠じたりしこそ心にくゝ覺えしか。

 「言のはの深き情は軒ばもる月の桂の色に見えにき」。

なごり多く覺えながら、此の宿をもうち出でゝ行き過ぐる程に、まひざはの原といふ所に來にけり。北南は渺々と遥にして、西は海の渚近し。錦花繡草のたぐひはいとも見えず。白き眞砂のみありて、雪の積れるに似たり。其の間に松たえだえ生ひ渡りて、鹽風梢に音づれ、又あやしの草の庵、所々みゆる、漁人釣客などの栖にやあるらむ。末遠き野原なれば、つくづくと詠め行く程に、うちつれたる旅人の語るをきけば、「いつの頃よりとはしらず、此の原に木像の觀音おはします。御堂など朽ちあれにけるにや、かりそめなる草の庵のうちに雨露もたまらず、年月を送る程に、一年望むことありて、鎌倉へ下る筑紫人ありけり。此の觀音の御前にまゐりたりけるが、もしこの本意をとげて、古鄕へむかはゞ、御堂をつくるべきよし、心の中に申し置きて侍りけり。鎌倉にて望む事かなひけるによりて、御堂を造りけるより、人多く參るなむ」とぞいふなる。聞きあへずその御堂へ參りたれば、不斷香の煙、風にさそはれうち馨り、あかの花も露鮮かなり。願書とおぼしきものばかり、帳の紐に結びつけたれば、「弘誓のふかき事海の如し」といへるも賴もしくおぼえて、