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を中秋三五夜の月に傷ましめ、かつがつ遠情を先途一千里の雲に送る」など、ある家の障子にかきつくる序に、

 「知らざりき秋の半の今宵しもかゝる旅ねの月をみむとは」。

かやつの東宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて里も響くばかりに罵りあへり。「けふは市の日になむ當りたる」とぞいふなる。手每に空しからぬ家づとも、かの「見てのみや人に語らむ」〈古今春上素性〉とよめる花のかたみには、やうかはりておぼゆ。

 「花ならぬ色香もしらぬ市人のいたづらならでかへる家づと」。

尾張國熱田の宮に至りぬ。神垣のあたり近ければ、やがて參りてをがみ奉るに、木立年ふりたるもりの木の間より、夕日の影たえだえさし入りて、あけの玉垣色をかへたるに、木綿しで風に亂れたる、ことがら物にふれて神さびたる中にも、ねぐら爭そふ鷺むらの、數も知らずこずゑに來ゐるさま雪のつもれるやうに見えて遠く白きものから暮ゆくまゝに靜まりゆく聲々も心すごく聞ゆ。ある人のいはく、「此の宮は素盞嗚尊なり。初は出雲國に宮造ありけり。八雲たつといへる大和言葉も、是よりはじまりけり。其の後景行天皇の御代に、この砌に迹を垂れ給へり」といへり。又いはく「此の宮の本體は、草薙と號し奉る神劔なり。景行の御子日本武尊と申す、夷を平げて歸り給ふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ。劔は熱田にとまり給ふ」ともいへり。一條院の御時、大江匡衡といふ博士ありけり。長保の末に當りて、當國の守にて下りけるに、大般若を書きて、此の宮にて供養を遂げゝる願文に、「吾が願已にみち