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り。弟の東三條殿の中納言殿におはしましゝに、まだこの殿は宰相にて、いとからき事に思したりしに、かくならせ給ひし、めでたかりし事なりかし。天延二年正月七日從二位せさせ給ふ。二月廿八日に太政大臣にならせたまふ。やがて正二位せさせ給ひててぐるまゆるさせ給ひて、三月廿六日關白にならせ給ひにしぞかし。宰相にならせ給ひし年より六年といふにかくならせ給ひにき。天延三年正月七日一位せさせ給ひてき。貞元二年十一月八日うせさせ給ひにき。御年五十三。同二十日贈正一位の宣旨あり。後の御いみな忠義公と申しき。この殿かくめでたくおはします程よりは、ひまなくて大將にえなり給はざりしぞ口をしかりしや。それかやうならむためにこそあれ、さてもありぬべき事なり。たゞ思しめせかしな。御母のことなきは一條殿のおなじにや。圓融院の御母后、このおとゞの妹におはしますぞ。この后村上の御時、康保元年四月廿九日にうせ給ひにしぞかし。この后のいまだおはしましゝ時に、このおとゞいかゞおぼしけむ。「關白は次第のまゝにせさせ給へ」とかゝせ奉りて、とり給ひたりける御文をまもりのやうに首にかけて年頃もちたりけり。御おとゝの東三條殿は冷泉院の藏人頭にて、この殿よりも先に三位して中納言にもなり給ひにしに、この殿ははづかに宰相ばかりにておはせしかば、世の中すさまじがりて內にも常に參り給はねば、御門も疎くおぼしめしたり。その時に兄の一條攝政、天祿三年十月にうせ給ひぬるに、この御ふみを內にもてまゐり給ひて、御覽ぜさせむとおぼすほどに、うへ鬼の間におはします程なりけり。をりよしと思し召すに、御をぢたちの中に疎くおはします人なれば、うち御覽じて入ら