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う光を放ちて髮前にみだしかけたる童なども見えけり。鬼殿などはかくやありけむとおそろし。人すまで年へあれぬる所などにこそかゝる事もおのづからありけれ、僅に一月二月の中にかゝるべきにはあらぬを、これかれと怪しきわざなるべし。さて例のあづまより御使のぼれり。代々のためしとかやとて、あい田の城のすけ高景、二階堂出羽の入道道雲とかやいふものぞ參れる。西園寺大納言公宗に事のよし申して春宮御位につき給ふ。さるべき御中といひながら今日あすとは見えざりつるに、いとめでたし。さて六波羅よりこの度は世のつねの行啓の儀式にて持明院殿へ入らせ給ふ。兩院もひきつくろひたる御幸のよしなり。ひしめきたちぬる世の音なひを聞しめす先帝の御心ちたとしへなくねたく人わろし。もとの內裏へ新帝うつらせ給ふ。上達部のこりなく仕うまつらる。院も常磐井殿へおはしまいて世の政事聞しめせば、後宇多院のむかし思ひ出でられてあはれなり。いつしか十月十二日令旨下されて前の御代の人々大中納言宰相すべて十人、宣房、公明、藤房、具行、隆資、實世、實治、季房、隆重、忠顯司やめらるゝよしきこゆるも、昨日までの時の花と見えし人々つかのまの夢かとあはれなり。かゝるにつけては一御ぞうのみ今はわく方なく定り給ふべきかと、世の人も思ひきこゆる程に、龜山院の御流の絕ゆべきにはあらずとにや、先坊の一宮を太子にたてまつる。御乳母の雅藤の宰相の法性寺の家に渡らせ給へるを、土御門高倉の先坊の御跡へ入れ奉りて十一月八日坊に定まり給ふ。今は思ひたえぬる心ちしつるにいとめでたし。松が浦島に年經給ひぬる入道の宮も御親の心ちにて坐しますべければ、太上天皇になずらへて崇