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輝門院、永福門院などの御歎思ひやるべし。御門は御輕服の儀なれば天下も色かはらず。この院姬君あまたおはしゝかど院號は章義門院、延明門院ばかりにておはします。二條富小路のむかし院のあとにあづまより造りて奉る內裏、この頃御わたましありしなどいといとおもしろかりき。近き事は人皆々御らんぜしかばなかなかにてとゞめつ。

     第十五 秋のみ山

文保二年二月廿六日、御門おりゐさせたまふ。春宮は既にみそぢにみたせ給へば、待遠なりつるにめでたくおぼさるべし。法皇都に出でさせ給ひて、世の中しろしめさる。龜山殿はさる事にて、近頃は大覺寺のほとりに御堂たてゝ籠りおはしましつゝ、いよいよ密敎の深き心ばへをのみ勤めまなばせ給へば、おのづからも京にいでさせ給ふ事なく、又參りかよふ人もまれなるやうにてかうさびたりつるを、引きかへ、事しけき世に行も懈怠し給へばむつかしくおぼさる。三月廿九日御即位なり。行幸の當日に左大將內經、花山院右大將家定行列を爭ひて、隨身どもわゝしくのゝしれば、御輿をおさへて、職事さうしくだしなどすめり。左大將の御父君は、內實のおとゞと聞えし。嘉元の頃俄にかくれ給ひしにかば、ぜふろくもしあへ給はざりしにより、今はたゞ人にてこそいますべければとて、かく爭ふとぞ聞えし。十月廿七日大甞會、淸暑堂の御神樂の拍子のために、綾小路の宰相有時といふ人、大內へまゐり侍るとて、車よりおりられざるほどに、いとすくよかなる田舍侍めくもの、太刀を拔きてはしりよるまゝに、あへなくうちてけり。さばかり立ちこみたる人の中にて、いとめづらかにあ