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られたり。よそほしかりつる御ありさまもいとほどなく唯時の間の煙にてのぼり給ひぬれば、誰も誰も夢の心ちしてほのぼのと明けゆく程におのおのまかで給ふ。三條大納言入道公貫、萬里小路大納言師重などはとりわき御志ふかくて御だびのはつるまで墨染の袖を顏におしあてつゝさぶらひたまふ。かねてより山道つくられて、木草きりはらひなどせられつれど露けさぞわけむ方なき。淚の雨のそふなるべし。內よりの御使に始め長親朝臣、雅行、有忠朝臣など三度まゐる。ふるき例なるべし。おなじき廿八日、院の上御素服たてまつる。おはします殿には黑き絲にてあみたる簾をかけらる。淺黃べりの御座にうへの御ぞ黑く、うへの御袴裏はかんじ色、御下がさねもくろし。おなじひへぎ、淺黃の御ひあふぎ、御だいまゐるも皆黑き御調度どもなり。この御序に御方々も御素服たてまつる、人數昭訓門院、昭慶門院は御むすめ、近衞殿の北政所、關白殿の北政所、良助法親王、覺雲、順助、慈道、性惠、行仁、性融法親王だち上達部もお山の御供したまふ。人々みなもれず。院の二の御子の御母も近頃は法皇召しとりて、いと時めかせて准后など聞えつるも思ひ歎き給ふべし。昭訓門院やがて御ぐしおろし給ふ。法皇は五十七にぞならせ給ひける。御骨もこの院に法花堂をたてゝをさめさせ給へば、龜山院とぞ申すべかめる。禪林寺殿をば坐しましゝ時より禪院になされき。南禪院といふはこれなめり。院の二のみこ、忠繼の宰相の女、今は准后と聞ゆる御腹におはします。このころ帥宮と聞ゆるを、法皇とりわき御傍さらずならはし奉りたまひて、いみじうらうたがり聞えさせ給ひしかば、人より殊におぼし歎くべし。頃さへしぐれがちなる雲のけしきに