Page:Kokubun taikan 07.pdf/678

提供:Wikisource
このページは校正済みです

年かへりぬれば嘉元も三年になりぬ。萬里小路殿の法皇またなやみとて龜山殿へうつらせ給ふ。いろいろに御修法やなにくれ御祈どもこちたくせさせ給へるもしるしなくて、九月十五日のあけぼのに終にかくれさせ給ひぬ。去年今年の世のさがなさ、うち續きたる人々の御歎どもいはむかたなし。世を背かせ給ひにし始つかたは、いときはたけうひじりだちて女房など御まへにだに參らぬ事なりしかど、後にはありしより猶たはれさせ給ひし程に、永福門院の御さしつぎの姬君はや御さかりも過ぐる程なりしを、この法皇にまゐらせ給へりしが、かひがひしく水の白浪にわかやがせ給ひて、やがて院號ありしかば昭訓門院ときこえつる。その御腹におとゝしばかり若宮生れ給へるをかぎりなくかなしきものにおぼされつるに、今すこしだに見奉らせ給はずなりぬるをいみじうおぼされけり。さてしもあらぬならひなれば、おなじ十七日に御わざの事せさせ給ふ。ことわりといひながらいといかめしう人々仕うまつり給ふ。網代びさしの御車、前右大臣殿よせさせ給ふ。ゑばうし直衣、袴ぎはにて參りたまふ。院のうへも庭におりさせ給ふ。法親王たち三人、山の座主、聖護院、十樂院、法親王などはわらうづをぞ奉る。上の山まで御供せさせ給ふ。上達部には前右大臣公衡、西園寺大納言公顯、萬里小路大納言師重、源中納言有房、三條前中納言、宗氏の二位、重經の二位、爲雄の宰相、經守、爲行、親氏などなり。殿上人には賴俊朝臣、忠氏、爲藤、國房、經世、泰忠、光忠、皆狩衣の袖をしぼりしぼりまゐる氣色さへあはれをそへたり。院も御供にひきさがりて參り給ふ。花山院權大納言、西園寺中納言、土御門大納言、御子親實の少將、御太刀持ちて御供せ