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君顯親門院と聞えし御腹なり。八月十五日まづ親王になし奉らせ給ひて同廿四日に春宮に立ち給ひぬ。かくて新帝は十七になり給へば、いとさかりにうつくしう、御心ばへもあてにけだかうすみたるさましてしめやかにおはします。三月廿四日御即位、この行幸の時花山院三位中將家定、御劔の役をつとめ給ふとてさかさまに內侍に渡されけるを、今出川のおとゞ御らんじ咎めて出仕とゞめらるべきよし申されしかど、鷹司の大殿、「なかなかさたがましくてあしかりなむ。たゞおとなくてこそ」と申しとゞめ給へりしこそなさけ深く侍りしか。後に思へばげにあさましきことのしるしにや侍りけむ。十月廿八日御禊、この度の女御代にも堀川のおとゞの姬君いで給へり。今のうへも源氏の御腹にてものし給ふ。いとめづらしくやんごとなし。されどうけばりたるさまにはおはせぬぞ心もとなかめる。又の年は乾元元年六月十六日龜山殿へ行幸あり。法皇いと珍らしくうつくしと見奉らせ給ふ。曉歸らせ給ひぬるのち、法皇より內に聞えさせたまふ。

  「したはるゝなごりにたへず月を見れば雲のうへにぞかげはなりぬる」。

御かへし、內のうへ、

  「君はよし千とせのよはひたもてればあひみむことのかずもしられず」。

一院は忠繼の宰相のむすめの中納言典侍殿といふ腹にも、男女み子だちあまたものし給ふ中にすぐれ給へる內親王をいとかなしきものにかしづき聞えさせ給ふ。この御代にもまた爲世の大納言うけたまはりて撰集あり。新後撰集ときこゆ。嘉元元年ひろうせらる。かくて