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しきに山吹の上着の裳ひきかけて寄り臥し給へるあてにらうたし。こまやかにうちかたらひ聞え給ふ。玄輝門院の御そばにかしづき聞え給ひしならひにや、おしなべてのうひ宮仕のさまよりは思ひあがれる氣色なり。今一所の御曹子も近き程なれば、そなたざまに步みおはしていと心しづかならねど、この君をばおしなべてのきはならずおぼすめり。この御腹にみ子達あまたおはしましき。かくめぐらせ給ふ程にいたく更けてぞ中宮のぼらせ給ふ。この御代にもいみじき行幸どもゆゝしき事多かりしかど、年のつもりに何事もさだかならず。月日などおぼろに侍ればなかなか聞えず。程なく明けくれて永仁も六年になりぬ。七月廿二日春宮に御位ゆづりており給ひぬ。霜月になりて五節の頃去年をおぼしいでゝ、そのをりに關白にておはせし兼忠のおとゞに櫛つかはすとて、新院、

  「をとめこがさすやをぐしのそのかみにともになれこし時ぞわすれぬ」。

御かへし、歡喜園前攝政殿、

  「いとゞ又こぞのこよひぞしのばるゝつげのをぐしを見るにつけても」。

堀川の具守のおとゞのむすめの御腹に前の新院の若宮生れ給へりし。六月廿七日御元服し給ひて八月十日春宮に立ち給ひぬ。御諱邦治ときこゆ。これも內よりは御年三つまさり給へり。今の御門は十一になり給ふ。御諱胤仁ときこゆ。あてになまめかしうおはします。中宮の御腹には大かた宮もものし給はねばこの御門をぞ御子にし奉らせ給ひける。讓位の後は中宮もおりさせ給ひて永福門院と聞ゆめり。皇后宮も此頃は遊義門院と申すなり。法皇の御傍