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けるにてかの淺原自害したるなどいふ事ども出できて、中院もしろしめしたるなどいふ聞えありて心うくいみじきやうにいひあつかふ、いとあさまし。中宮の御せうと權大納言公衡一院の御まへにて「この事は猶禪林寺殿の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御そぶんを引きたがへ、あづまよりかく當代をもすゑ奉り世をしろしめさする事を心よからずおぼすによりて世をかたぶけ給はむの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさばまさる事や出でまうでこむ。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」などかの承久のためしも引きいでつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して「いかでかさまではあらむ。實ならぬ事をも人はよくいひなすものなりかし。故院のなき御影にもおぼさむ事こそいみじけれ」と淚ぐみてのたまふを、心弱くおはしますかなと見奉り給ひて猶內よりの仰などきびしき事ども聞ゆれば、中の院も新院もおぼし驚かせ給ふ。いとあわだゞしきやうになりぬれば、いかゞはせむとてしろしめさぬよし誓ひたる御せうそこなどあづまへ遣されてのちぞ事しづまりにける。さてなが月の初つかた中の院は御ぐしおろさせ給ふ。いと哀なる事ども多かるべし。禪林寺殿にてやがて御如法經など書かせ給ふ。一院の世の中恨みおぼされし時既にと聞えしはさもおはしまさでかくすがやかにせさせ給ひぬるいとさだめなし。しばしは禪僧にならせ給ふとてろうさうの御衣にくわらといふ袈裟かけさせ給へり。四十一にぞものし給ひける。御法名金剛覺と申すなり。新陽明門院はじめ奉りていろいろの御召人ども、らうの御方、讃岐の二位殿などさびしき院に殘りてあるはさまかへあるは里へまかでなどさ