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ほく、頭痛きまでめぐりありく。その年の十二月に御門の御母三位殿院號ありき。朝に准后の宣旨ありて同じき日の夕に玄輝門院と申す。めでたくいみじかりき。年かへりて正應も二年になりぬ。よろづめでたき事ども多くて三月廿三日鳥羽殿へ朝覲の行幸なる。本院はかねてより鳥羽殿におはしまして池の水草かきはらひ、いみじうみがゝれて例のことごとしきからの御船浮められて、廿四日に舞樂ありき。廿六日にぞ歸らせ給ひける。さても去年の三月三日かとよ、常氏の宰相のむすめの御腹に若宮いできさせ給へりしを太子に立て奉らせ給ふいとかしこき御宿世なり。中宮の御子にぞなし奉らせ給ひける。おなじうはまことにておはせましかばとぞ大將殿など思しけむかし。おりゐの御門も御子あまたおはしませば、坊になどおぼしけるをひきよぎぬるいとほいなし。十月二十五日、一院の御所にてまなきこしめす。いとめでたき事どものゝしり過ぎもてゆく。おなじき三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子狛犬中よりわれたり。驚きおぼして御占あるに「血流るべし」とかや申しければ、いかなる事のあるべきにかと誰も誰もおぼしさわぐに、その九日の夜右衞門の陣より、おそろしげなるものゝふ三四人馬に乘りながら九重の中へはせ入りて、上にのぼりて女孺が局の口に立ちて「やゝ」といふに、ものを見あげたれば、丈高くおそろしげなる男の赤地のにしきの鎧直垂に、ひをどしの鎧着て、唯赤鬼などのやうなるつらつきにて、「御門はいづくに御よるぞ」と問ふ。「夜のおとゞに」といらふれば、「いづくぞ」とまた問ふ。南殿よりひんがし北のすみとをしふれば南ざまへ步みゆく間に女孺內より參りて權大納言典侍殿新內侍殿などにか