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  「跡とめてとはるゝ御代のひかりをや雪の中にもおもひいづらむ」。

女房の中にきこえたるを院御らんじてかへしにのたまふ。

  「なき人のかさねし罪もきえねとて雪のうちにもあとをとふかな」。

よろづ飽かずおぼさるゝほどなれど、その年の十月におりゐさせ給ふ。もとのうへは廿一にぞならせ給ひける。御本性もいとうるはしくのどめたるさまにおぼして、すくよかに御才もかしこうめでたうおはしませば、御政事などもやうやうゆづりや聞えましなどおぼされつるに、いとあへなくうつろひぬる世をすげなく新院はおぼさるべし。春宮位に即き給ひぬれば天下本院におしうつりぬ。世の中おしわかれて人の心どもゝかゝるきはにぞあらはれける。今の御門にも故山階のおとゞの御うまごにてわたらせ給へば、かの殿ばらのみぞいづ方にもすさめぬ人にておはしける。

     第十三 けふの日影〈五字イ無〉

正應元年三月十五日官廳にて御即位あり。このほどは香園院の左のおとゞ師忠關白にておはしき。その後近衞殿〈家基〉、又九條左大臣殿〈忠敎〉、その後又近衞殿かへりなり給ひき。猶後に歡喜園院などいとしげうかはり給ふ。おりゐの御門を今は新院ときこゆれば、太上天皇三たり世におはします頃なり。いとめづらしく侍るにや。御門の御母三位したまふ。その御はらからの姬君御傍にさぶらひ給ふを、うへいと忍びたる御むつびあるべし。「東二條院の御ためしにや」などさゞめく人もあれど、さばかりうけばりてはえしもやおはせざらむ。三位殿の御せ